「またね」 (ふり行くものは我が身なりけり)
僕らは駅のホームに一つだけ設置された、日焼けして色あせたベンチに並んで座っていた。
電車が来るのは、20分も先。
自動改札もない田舎町のローカル線。夕方前のこの時間、電車は1時間に1本のみ。
なにもこんなに早く駅に着く事はなかったのだけれど、僕らは2人並んでベンチに座って電車を待った。
梅雨だというのに今日は朝から快晴で、日が暮れはじめたこの時間でも、体にまとわりつくような湿気が、薄皮の様に肌に張り付いて、拭っても拭っても不快さが薄れなかった。
じっとスニーカーのつま先を見つめる。
本当なら、隣に座っている彼女に何か話しておかなければいけないハズ。
なのに、ただ擦れて毛羽立ったつま先を眺めて、その毛羽立ちがいつできたのか思い出そうとしていた。
あと10分。
僕の視界の左隅に、彼女の右太ももが見える。
太腿の上で両手をぎゅっと握っているのが分かる。
時々、右の親指の爪辺りを左手で摘まんで擦り、体がこわばって、ぎこちない銅さをしてるのが感じられた。
彼女も堪えてるんだ。
僕と同じように、怖かったんだ。
あと5分。
この日が来るのは、1年も前から分かってた。
始めから期限付きの関係。
1年後には必ず別れなければならない恋。
別れたら、もう二度と会う事もできない二人。
付き合い始めは、必ずやって来る期限を恐れてあえて深入りしようとはせず、フランクな距離感を意識し合った。
そのうちに二人でいる事が日常になり、期限という恐怖感は薄れ、そしていつからか完全に消えた。
二人でよくたわいもない事で笑ったし、くだらない事で喧嘩した。
喧嘩をしても、いつも彼女の方から歩み寄ってくれて、すぐに仲直りした。
いま思えば、僕が忘れてしまった期限というものを彼女はずっと意識してくれていたんだろう。
だから限りある時間を1秒でも無駄にしたくなかったんだろう。
あと4分。
期限まで残りあと2か月あたりで、僕も期限を意識するようになった。
意識してしまうと過ぎ去った過去の方ばかりが気になって、あの時ここに行けばよかった、あの時ああすればよかったと、二人でいるのにいつも僕は記憶を遡り記憶のなかの彼女を追いかけた。目の前に現在の彼女がいるのに。
別れ際、彼女はいつも笑顔で「またね」と言った。
僕も「またね」と返すのだけれど、日に日に声が暗く落ち込んでいくのを感じていた。
今頃になって1秒1秒が大切に思えるのに、そう思ってなお1秒を無駄に費やしてた。
あと3分。
遠くで微かに遮断機の鐘の音がした気がして、ビクッとした。
気のせいじゃないのだろう。彼女もビクッてしたから。
今、言わなきゃ。
今、話さなきゃ。
なのに口の中はカラッカラに乾いてて、言葉が胸の上あたりで押さえつけられてるような感覚を覚えた。その時初めて「声ってノドにつっかえるんだ」って思った。
覚えておこうって、また無駄に1秒を費やした。
あと2分。
ホーム脇の遮断機が下りた。
もう電車が枕木を踏みつける、カタコトがガタゴトに聞こえる。
僕は彼女の方に目を向けられないまま、強張った体を無理やりに立ち上がらせた。
背中の向こうで、彼女が立ちあがる気配を感じた。
この時点でも、僕らはまだ一言も言葉を交わしてなかった。交わせなかった。
あと1分。
2両編成の1両目。
3つあるドアの一番前のドアが開く。
電車に乗り込んで、ようやく振り返る。
彼女の顔は涙でグショグショだった。
でも精一杯の笑顔で、いつものようにこう言った。「・・・またね」
ドアが閉まる。
モーター音が高まり、少しの振動とともに電車が進みだす。
ここでようやく、僕にかけられた呪縛が解ける。
座席に駆け寄り、窓を全開に明け、身を乗り出して叫んだ。
「さようなら!またね!38! サンジュウハチィィィーーーーーーッ!」
っつー感じで、明日39になんのよ。
どーゆー感じだよ、ってのは置いといて。
早ぇよ、もう30代最後の一年かよ。
もうさ、プロフとかで「30代です♥ きゃはっ!」とか書く最後のチャンスなのよ。
書いてねーけどさ。
書けねーけどさ。
若いうちに散々好き勝手に腰振ってたならいざ知らず、大して腰も使わずに39になるっつーのに、あの股開きクイーンと同じように中年の勃起危機が訪れるなんて、あんまりじゃ御座いませんこと?
こちとら、中継ぎピッチャーか俺かって位、大事にしてたんよ。腰を。っつか股を。
選手生命に関わるって聞いたから、股関係も控えてきた。
それなんに、なんで弱ってんのよ!
まだ貯金あるだろ!っつーやり場のない怒りとも悲哀ともつかない感情と共に。
わたくし、明日39になります。
高価なプレゼント、待ってます。
高嶺の花(イケメン男)、待ってます。
なお、期限はございませんので安心して、でも出来るだけ早めにお送りください。
『じゃ、股ね』